言論サイト「iRONNA」から依頼された原稿が
3月11日に公開された。編集部が付けてくれたタイトルは「『天皇はかくあるべし』上から目線の知識人が錯覚した陛下のお気持ち」。ご関心の向きは覗いて戴きたい。皇室に対し、「反天皇」の左翼が“上から目線”なのは、特に驚くにはあたらない。しかし、“保守”の一部の言論人の横柄さは、常軌を逸している。と言うより、私の率直な感想を敢えて述べると、殆ど正気を疑うレベルだ。引用する事さえ心穏やかでないものを感じるが、例えば以下のような調子だ(八木秀次氏、平成19年)。「ここで考えておかなければならない事態がある。いずれ遠からぬうちに訪れるお代代(原文のママ)わりという事態である。その時、宮中祭祀を受け入れられないまま雅子妃が皇后になったら、どうなるのか。…雅子妃が皇后に相応(ふさわ)しいかどうかという議論が起こるはずである」「私は…皇太子ご夫妻の離婚という事態を想定せざるを得ない。もしもこのまま雅子妃が宮中祭祀を受け入れられないなら、皇后としての資質に疑念を抱かざるを得ず、宮中祭祀、すなわち皇室の皇室たるゆえんを守るために離婚もやむを得ないということだ」「御代代(原文のママ)わりが起こった後ではもはや離婚はできない。…御代代(原文のママ)わりの前に離婚という事態も想定せざるを得ない」「皇太子殿下が離婚という事態を受け入れるとは思えない。…(その場合は)皇室典範第3条にある〈重大な事故〉を拡大(原文のママ)解釈し、皇位継承権第1位の座を皇太子殿下から秋篠宮殿下に移そうとの議論が生じてもおかしくない」「一皇太子妃のご病状回復と歴史上連綿と続いてきた宮中祭祀が天秤(てんびん)に掛けられるようであれば、離婚ないし皇位継承権の変更を想定せざるを得ない事態になると思われる」ここでは、皇太子・同妃両殿下のご離婚のみならず、皇室典範を「拡大(!)解釈」しての廃太子(はいたいし、皇太子を廃すること)まで呼び掛けている。驚いた事に、この文章の執筆者は、皇位継承順位を決めるのは自分(!)だと思っているようだ。又、皇族方のご離婚も国民が勝手に指図(さしず)できると信じているらしい。自分たちは国民としての節度も礼節も弁(わきま)えなくてよい。しかし、皇室の方々は、一度限りの掛け替えのない人生を、国民の注文通りに左右されて当然だと。「一皇太子妃」という傲岸不遜な物言いに、この執筆者の“ふんぞり返り”ぶりが露呈している。呆れ果てる。しかも、この執筆者は、皇室に対する知識を殆ど身につけていない。何しろキーワードの「御代(みよ)替(が)わり」さえ、平気で「御代代わり」と繰り返し書いてしまう。又、普通に「皇嗣(こうし)」と書けばよい所を、「皇位継承権第1位」などとたどたどしく書いている。これも、せめて皇位継承“順位”第1位と書くべきだ。「皇位継承権の変更」も奇妙な表現で、「皇位継承“順序”の変更」が正しい。この執筆者が、皇室についてのごく初歩的な知識も持っていない事が、よく分かる。更に、「宮中祭祀、すなわち皇室の皇室たるゆえん」とか、「歴史上連綿と続いてきた宮中祭祀」などと、“宮中祭祀”という「呪文」を振り回せば、どんな非礼・不敬な暴言も許されると錯覚しているようだが、残念ながら宮中祭祀についての知識も、満足に持ち合わせていない。宮中祭祀とは何か。皇學館大学名誉教授で、昭和から平成への御代替わりの時に、宮中祭祀に奉仕する掌典職で祭事課長を務められた鎌田純一氏は、以下のように説明されている。「皇室祭祀または宮中祭祀とは、天皇が賢所(かしこどころ)、皇霊殿(こうれいでん)、神殿のいわゆる宮中三殿、また神嘉殿(しんかでん)、そして山陵(さんりょう)で、御祖先また神々に深謝され、国家の安泰、国民の福祉、さらに広く世の平らぎを祈念される祭祀のこと」と。ところが、宮中三殿の原型が成立したのは明治5年。だから、「宮中祭祀」という歴史的に限定された概念を使うと、「歴史上連綿」とか「皇室の皇室たるゆえん」などとは、とても言えない。しかも鎌田氏の説明にあるように、宮中祭祀の“主語”あくまでも「天皇」。皇后や皇太子妃は、言わばそのお供という位置付けになる。だから小祭の場合、原則として皇后や皇太子妃のお出ましは無い。更に、皇室祭祀の「主体」であられる天皇ご自身でさえ、そのご健康に差し障りがあるような場合は、(当然ながら)お出ましを控えられる。明治天皇の実例を見ても、例えば最も大切な新嘗祭(にいなめさい)でさえ、明治27年以降は(明治44年までの18回のうち)10回もお出ましを控えておられる(特に明治39年からは全くお出ましが無い)。そもそも、皇太子妃雅子殿下は「宮中祭祀を受け入れられない」のではなく、ご療養中なので、ご負担が極めて大きい祭祀へのお出ましを控えておられるまでだ(この執筆者は祭祀の際のご負担がまるで理解できていない)。この執筆者の論法だと、“大帝”と称(たた)えられた明治天皇でさえ「(天皇)に相応しいかどうかという議論が起こるはず」「(天皇)としての資質に疑念を抱かざるを得ず」と非難される事になろう(祭祀の主体だけに、一層強く指弾されねばならないという話にもなる)。それがいかに見当外れな言い分であるかは明らかだろう。国民の中に、このような無礼極まる暴言を吐き散らす者がいる事を、皇室に対してまことに申し訳なく思う。